まずは1958年の年間ランク50位から41位まで。
50位は珍しいことに2曲がランクイン。ドン・ギブソン「オー・ランサム・ミー」とバディ・ホリー「ペギー・スー」。ドン・ギブソンはカントリー系のシンガー・ソングライターで「オー・ランサム・ミー」も彼自身の手によるもの。バディ・ホリーは、伝説的なロックンローラーだ。自身のバンド、クリケッツを率いて精力的にツアーを行っている最中に飛行機事故のため23歳という若さで命を落とした。その彼が歌った「ペギー・スー」は57年に録音された曲で、たまにシャクリあげるような歌い方(ヒーカップ唱法)と十六分音符のリズムを曲の間中演奏しているフロアタムのサウンドが特徴的。さして変化のないこのリズムを一心不乱にたたき続けたドラマーは、心身ともにめちゃくちゃ疲れたと思う。
49位はエルヴィス・プレスリーのロックンロールナンバー「冷たい女(ハード・ヘッディッド・ウーマン)」、48位白人ドゥワップグループ、ダイヤモンズの「ザ・ストロール」、47位クレッシェンド「オー、ジュリー」、46位デュアン・エディ「レベル・ラウザー」と続くが、50位タイの「ペギー・スー」から「レベル・ラウザー」までは白人アーティストのロックンロール。56年に始まったロックンロールの潮流がますます勢いを増してきたと言える。この中でもギタリストのデュアン・エディは低音を響かせる独特のギターサウンド、ドゥワングを編み出したことで知られる。「レベル・ラウザー」でも深いリバーブと比較的早いトレモロを効かせた低音中心の演奏が時代を感じさせる。
45位はポピュラーシンガーでビルボードの常連となったパット・ブーンの「エイプリル・ラブ」。自身が主演した映画の主題歌だった。
44位テディ・ベアーズ「トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラヴ・ヒム(邦題:会ったとたんに一目ぼれ)」。このバンドは3人のメンバーで構成されていたが、男性2人のうち1人は後にプロデューサーとして、また音楽制作手法の一つウォール・オヴ・サウンドの始祖として名高いフィル・スペクターだった。このときにはウォール・オヴ・サウンドはまだ明確な形にはなっていないが、リバーブを効かせた演奏、特にドラムに強く掛けているのはその兆候のように思える。
43位「ホェン」は、カリン・ツインズという男性の双子が歌った軽めのロックンロール。60年代にはキブ兄弟のロビンとモーリス、70年代のアレッシー、80年代ブロス、90年代にはネルソンなどという男性の双子チームが出現したが、カリン・ツインズはその草分け的存在だったのかも。
42位ボビー・フリーマン「ドゥ・ユゥ・ウォント・トゥ・ダンス(邦題:踊ろよベイビー)」。後にビーチ・ボーイズ、クリフ・リチャード&シャドウズ、ママス&パパスなど多くのアーティストがカバーしてロックンロールのスタンダードナンバーとなった曲。オリジナルのフリーマンを含め全員が「ドゥ・ユゥ・ウォナ・ダンス」と発音していたせいか、曲のタイトルもいつの頃からか「ドゥ・ユゥ・ウォナ・ダンス」と表記されることが普通になった。エコーを掛けたコンガのイントロから曲が始まるが、ラテンのリズムに乗ったロックンロールという作りがユニーク。
41位ジョディ・レイノルズ「エンドレス・スリープ」。これもロックンロールナンバーだが、初期のロックンロール、つまりロカビリースタイルの曲。レイノルズはシンガー・ソングライターで、この「エンドレス・スリープ」も彼自身の手によるもの。レイノルズのように、前年の流れを引き継いだシンガー・ソングライターの存在は次第に大きくなっており、ドン・ギブソン、バディ・ホリー、デュアン・エディ、テディ・ベアーズ、ボビー・フリーマン、ジョディ・レイノルズの6曲は、シンガー・ソングライターである彼ら自身の手によるものだった。
(オールディーズK)
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