松江市八雲台2丁目の戦没者遺族、岩田憙昌(としまさ)さん(86)は今年5月、有志とともに「島根平和遺族会」を立ち上げた。フィリピン・ルソン島沖で父房雄さんを亡くして80年。子どもの成長を見届けられなかった父の無念に思いをはせる。
短歌好きな父だったという。出征前、紙の代わりに手近にあった封筒に一首を書き残した。「別れに望みて健やかに 育み給えと祈りつつ 我は御国に捧げ参らす」。父は帰ってこなかったので、これを辞世の句と受け取っている。
安来市広瀬町上山佐に一家で住んでいた小学1年生の時、父に召集令状が届いた。1943年春で、父は31歳だった。兵役義務があった当時、父は胃が悪く、若い頃の徴兵検査では不合格となり免除されていたが、日米開戦から1年余りが過ぎ、その日が訪れた。
「行ってくるよ」。出征の日、神社で集落の住民総出で見送られ、ハイヤーに乗る姿が最後に見た父の姿だ。気恥ずかしさもあり、そばの石灯籠に隠れながらひっそりと見送った。母のおなかには5人目となる新しい命も授かっていた。
陸軍広島連隊に配属された。その後の足取りは定かではない。訃報は突然に訪れた。出征して半年後の43年10月8日、ルソン島沖、乗っていた輸送船が撃沈されたという。「お父さんが亡くなった」と、母は目に涙をためた。遺骨があるはずもなく、あの歌を書いた封筒が形見となった。
終戦の日が来た。戦時中以上に苦しい戦後の暮らしが待っていた。農業を一手に仕切っていた祖父が戦後すぐに他界。貴重な男手を失い50アールあった水田の収量が激減した。収穫した米も政府に供出すると、手元にはほとんど残らなかった。「みんなで死んでしまおうか」。きょうだいが寝静まったある日、母が弱音とも本音とも取れるように発した言葉が忘れられない。
祖母は戦後10年が過ぎてなお、戦死した父について「生きている。いつか帰ってくる」と言い続けた。日々の食糧に事欠き、回復不可能と思えるほど深い傷を負った戦後日本で、誰もが自分を保つのにも必死な時代。今、振り返ると祖母は自分で自分に言い聞かせていたのだと思える。
憙昌さんはその後、労働団体の職員となり長く働いた。仕事に打ち込み、子宝にも恵まれて父と同じ30代になった頃、形見の封筒を肌身離さず持ち歩くようになった。「何を思い死んでいったのか」。疑問は晴れなかったが、父の無念を推し量り、時間を過ごした。
封筒の裏面にもう一首、記されている。「あとあとは よろしく頼むよ吾夫(わがつま)よ 戦のにわに いで立つ我は」。子どもを残して旅立つ悲しみと同時に、勇ましくあろうとした姿が浮かぶ。
戦後78年を迎え、新たな遺族団体を旗揚げした今年。あらためて平和の尊さを伝える決意を胸にする。
(勝部浩文)
=おわり=














