「中世武士団展 益田市版」で展示される肥後宗像家文書=益田市本町、市立歴史文化交流館・れきしーな
「中世武士団展 益田市版」で展示される肥後宗像家文書=益田市本町、市立歴史文化交流館・れきしーな

 福岡県宗像市に鎮座する世界遺産・宗像大社。総社の辺津(へつ)宮本殿は1578年に大宮司の宗像氏貞(うじさだ)によって再建された際、益田の材木が使われ、領主益田氏は大量の寄進もしたと記録が残る。ともに海洋交易で栄えた両家は協力関係にあったことが分かっている▼近年掘り起こされた史料で両家の関係に熱視線が注がれた。議論の中心は宗像才鶴という、名の読み方さえはっきりしない謎の人物▼豊臣秀吉が才鶴に宛てた文書が熊本県多良木町で4年前に見つかり、それは跡取り不在で死去した氏貞の後継者と認めている内容だった。才鶴は実は氏貞の妻で、秀吉が武家の当主と認めた唯一の女性とする説まで浮上したが、その後の新史料で覆されることになる▼同じ多良木町で発見された書状をひもとくと、氏貞亡き後の家督について毛利家に相談があり、跡継ぎを出すよう命じられた家臣の益田藤兼(ふじかね)、元祥(もとよし)の父子がありがたく引き受けたとある。才鶴は養子として送られた元祥の次男景祥(かげよし)だったことが確定的となった▼多良木町が所蔵する一連の文書は、益田市の歴史文化交流館れきしーなで開催中の特別展で公開されている。横の関係を築いて大陸との交易を活発化させた郷土の歴史が誇らしくもあり、力を持った地方がダイナミックに動いた中世の時代がうらやましくもあり。時代を超えて宗像市と交流が生まれれば面白いと思うのだが、どうだろう。(史)