能登半島地震の発災から3カ月を過ぎた4月9日から11日まで、記者が甚大な被害を受けた石川県珠洲市でボランティア活動に参加した
能登半島地震の発災から3カ月を過ぎた4月9日から11日まで、記者が甚大な被害を受けた石川県珠洲市でボランティア活動に参加した

 能登半島地震で甚大な被害を受けた石川県珠洲市で9日から11日まで、ボランティア活動に参加した。発災から3カ月を過ぎたが、上下水道は使えないまま。倒壊した家屋のがれきも手つかずだった。復旧の遅れに驚くとともに「とにかく一刻も早く水を」と被災者の言葉が耳の奥に響いた。
(出雲総局・佐野卓矢)

地震で持ち上がった珠洲ひのきしんセンターの浄化槽=石川県珠洲市上戸町
 

 記者は出雲市総合ボランティアセンターの派遣隊(8人)に参加した。珠洲市北部で一時孤立した大谷地区の避難所に、温水シャワー室を設置するのが役割だ。

 初日はあいにくの雨。屋外での活動は困難で、市中心部にあり、宿泊場所となる珠洲ひのきしんセンターで、建物の被災箇所を直す作業にあたった。2階建ての木造家屋は至るところで壁が剥がれたまま。ふすまが壊れ、戸が閉められない状態になっていた。

 珠洲ひのきしんセンターは天理教が管理運営する。天理教は独自に炊き出しなどを行い、市外からボランティアを受け付けている。自らも被災した石橋雄一郎事務局長(58)は「とにかく早く水を何とかしてほしい」と切実な思いを訴えた。

珠洲ひのきしんセンターでボランティア活動のコーディネートを行う石橋雄一郎事務局長(左)と妻の淑子さん=石川県珠洲市上戸町


 下水道は、浄化槽が地震で持ち上がり、復旧のめどが立たない。上水道は近くまでつながったが、自宅の敷地内で破損した管は、住民側で直さなければならない。業者に頼もうにも依頼が殺到し、いつになるか分からないという。費用も原則、個人負担になる。

 石橋事務局長によると、水の問題が、二次避難者の帰宅やボランティア受け入れの大きな障壁になっているという。

津波で大きな被害を受けた珠洲市宝立町の海岸沿いの地域

 近所を歩くと、1階が押しつぶれた家屋は、居間が散乱したまま。津波の被害が激しかった地区を車で通ると、両脇ががれきの山で、人の気配すら感じられなかった。

金沢147キロと記された道路標示=石川県珠洲市上戸町


 傾いた道路標識は「金沢147キロ」の表示。前日に泊まった金沢市内では、ほとんど地震の影響を感じなかった。石橋事務局長は「東日本大震災を経験した人からは、東日本に比べて復旧が1~2カ月遅れていると聞いた。珠洲で住むのを諦めろと言われているようだ」と明かした。

 派遣隊には大工の男性2人が参加。2人の活躍により、1日かけてセンターの戸は一部修復した。「3カ月ぶりです」。戸を開けた石橋さんの妻淑子さん(60)が見せた笑顔を見て、それまで被災地の惨状にショックを受けていた心が少し温まった。

地震以来、3カ月ぶりに障子の戸が開き、喜ぶ石橋淑子さん=石川県珠洲市上戸町、珠洲ひのきしんセンター


 2日目は快晴。早朝から大谷地区に向かった。山道には土砂が崩れ、地震時に孤立を強いられていたと容易に想像できた。約40分かけて到着したのは、日本海に面した同地区の長橋町集会場。長橋町は35世帯約70人が暮らし、集会場には多い時で20人近く、訪れたときには4世帯6人が避難生活を送っていた。

海底が隆起し、白くなった海岸=石川県珠洲市長橋町

 

海底の隆起で水がなくなった漁港=石川県珠洲市長橋町


 海に目をやると、漁港に水がない。海岸は遠くまで延び、途中から白くなっていた。「あれは海の底でした」。白い部分を指さし、住民の鍛冶徹さん(28)が教えてくれた。地震で海底が2メートル以上隆起し、乾いて白くなっている。地震直後は、多くの住民が隆起を津波前の引き波と考え、山に向かい一目散に逃げたという。

 同町内は津波被害はなかったものの、町外に出ていた人も含め高齢者の住民2人が亡くなった。唯一のスーパーもぺしゃんこに。1カ月は電気が通らず、水は上下水道とも不通だ。自衛隊が設置した風呂はあるが、車で30分以上かかる。夕方から営業のため、ガタガタの道路を夜に移動するのが不安という人もいるという。風呂をまきでたく家は山水を使ってたいているが、毎日は難しい。暑くなるのを前に、衛生環境が課題になっていた。

避難所近くの道路の歩道に転がったままになっていた巨石=石川県珠洲市長橋町


 シャワーのニーズはありそうだが、大変な状況にある避難者の期待に応えられるのか。不安の中で作業が始まった。シャワー設備を運んできたため、そのまま設置すればいいと簡単に考えていたが甘かった。

避難者も加わり、シャワー室の屋根を一緒に取り付けるボランティア=石川県珠洲市長橋町


 まずは土台の設置場所を選び、硬い土を水平にならす作業からだ。さらに排水する配管を埋める土掘り。力仕事しかできないため、必死にくわやツルハシを振った。土台ができるまでに半日を要し、シャワーを置けたのは昼過ぎ。それから積み木のように、壁となる木材を組み合わせた。

 最初は、遠巻きに眺めていた避難者が形が現れるにつれ、近づいて興味を示してくれるようになった。素直にうれしい。この日のハイライトは2メートル四方もある屋根の設置。人手が必要な中、避難者の高齢男性が自らはしごに登って手伝ってくれた。無事に天井に収まると拍手が起こった。

 そして最終日。ほぼ形はできていたが、大工の男性は「今日中に間に合うかどうか」と厳しい表情。設置場所は海端で風が強い。雨風をしのぐため、全体をプラスチック製の波板で覆い、さらに、屋根が飛ばないよう重りをつける必要があるという。最後まで手を抜かないプロの仕事に頭が下がる。

 記者も指示に従い、くぎを打ち続けた。地元の水道、ガスや電気業者の協力を受け、辺りが薄暗くなった夕方に完成。シャワーをひねり、お湯が出た瞬間、住民の女性から「あったかーい」と歓声が上がった。雑仕事程度しかできなった自分にも、避難所から住民が来て「ありがとう」と握手を求められ、目頭が熱くなった。

出来上がったシャワー室を見て、笑顔を見せる鍛冶鉄雄自治会長ら(左)住民=石川県珠洲市長橋町


  自治会長の鍛冶鉄雄さん(67)も駆けつけ「体を洗えるのがうれしい」と喜んだ。町内では1月中旬まで孤立が続き、最初の1カ月間は全員が生きるのに必死だったという。ボランティアもほぼなく、住民同士の協力で耐え忍んだ。「これまでは生きるためだったが、これからは癒やしの支援も必要になる。被災者のニーズも多様化するだろう。そのためにも、ボランティアに来てほしい」と話した。

 現地では自宅が被災した高齢者が、学生ボランティアと話をするうちに、気持ちが前向きになり、がれきの片付けを始めたエピソードを聞いた。SNS上では一時ボランティア自粛論も広がり、記者自身も特別な技術がない中、参加に迷いはあった。

 しかし、そんな気持ちは吹っ切れた。復旧の遅れはニュースより被災者の口から直接聞くことで全く響きが違った。現地を見たことを伝えるだけでも意味があった。復興の足取りは遅く、息の長い支援が必要になりそうだが、できることはたくさんある。被災者の声に耳を傾け、寄り添う気持ちを持ち続けたい。