山陰中央新報の起源は、自由民権運動の機関紙的な意味合いが濃かった1882(明治15)年5月1日創刊の「山陰新聞」。歴史は142年を数える。
本紙の前身が産声を上げたこの年の7月、高知では「新聞の葬式」が行われた。土佐藩出身の政治家・板垣退助(1837~1919年)らが創立した政治結社、立志社の機関紙「高知新聞」が明治政府の言論弾圧により発行禁止に。抗議行動として葬式を挙行した。
<我ガ愛友ナル高知新聞ハ一昨十四日午後九時絶命候ニ付…>。〝身代わり紙〟として名前を変えた「高知自由新聞」が死亡広告を載せると、会葬は記帳者だけで2千人を超えたという。先日、全国の新聞社の会合で高知市を訪ね、地元の歴史研究者・公文豪さん(75)から教わった。憲法も国会もなく、国民が重税に苦しんでいた時代。新聞は人々の反骨精神を代弁していた。
高知では牧野植物園も視察した。昨年の朝ドラ『らんまん』のモデルで植物学者・牧野富太郎(1862~1957年)の業績を顕彰する施設。ところが学芸員からは植物ではなく、昔の新聞を見せられた。
牧野は全国を歩き、生涯を通じて40万枚もの植物標本を収集。吸水性が高く、安価で手に入る新聞紙で挟んで保管していたという。これら昔の新聞が全国各地の「失われた歴史」の空白を埋めるのに役立っているそうだ。紙の新聞の〝チカラ〟を南国で垣間見た。(健)