「目の前で突然フラッシュを照らされた感覚。身の危険を感じた。何の音もしなかったが、その直後、爆風に襲われた」。昨年、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員で、ノルウェーのオスロであった授賞式で演説した田中熙巳さん(92)=埼玉県新座市=の被爆の記憶だ。先日、東京で講演を聴いた。
中国東北部(旧満州)生まれ。中学1年だった1945年8月9日、移住先の長崎市に原爆が投下された。自宅は爆心地から3・2キロ。大きな被害はなかったが、2人の伯母とその家族5人が犠牲になった。3日後に爆心地近くに入り、伯母らの遺体を確認。「立つこともできず、泣き崩れた」と振り返る。
命を奪われた伯母らと生き残った自分。そんな後ろめたさもあるのだろう。「他の人と比べると被害は大したことない。自分は『被爆者』ではなく『原爆体験者』という意識」で被爆者運動に取り組んでいるという。
今年は被爆80年。その前年に舞い込んだ栄誉だが、「世論を大きくするような国民的な運動は起きていない」と物足りなさも口にした。
29日に93歳を迎える田中さん。かくしゃくとした様子が印象に残った。講演終了後、元気の秘訣(ひけつ)を聞くと「被爆者支援を何とかしなければという思い。私ももう少し頑張らないと」と笑顔。とはいえ、いつまでも頼るわけにはいくまい。次代への継承は待ったなしだ。(健)