女子教育に半生を捧げた錦織竹香=没後30年記念誌「錦織竹香女史をしのんで」から転載
女子教育に半生を捧げた錦織竹香=没後30年記念誌「錦織竹香女史をしのんで」から転載
錦織竹香の寄付金によって建立され、変遷を経て再建された二宮金次郎像
錦織竹香の寄付金によって建立され、変遷を経て再建された二宮金次郎像
竹香が書いて贈った横額の書=いずれも出雲市斐川町神庭の荘原小学校
竹香が書いて贈った横額の書=いずれも出雲市斐川町神庭の荘原小学校
錦織 竹香の歩み
錦織 竹香の歩み
女子教育に半生を捧げた錦織竹香=没後30年記念誌「錦織竹香女史をしのんで」から転載 錦織竹香の寄付金によって建立され、変遷を経て再建された二宮金次郎像 竹香が書いて贈った横額の書=いずれも出雲市斐川町神庭の荘原小学校 錦織 竹香の歩み

奈良女子大(前身)に招かれ教える

 明治時代から大正時代にかけて、女子教育に半生を捧(ささ)げた女性(じょせい)の教育者がいました。現在(げんざい)の出雲(いずも)市斐川(ひかわ)町神庭(かんば)に生まれた錦織(にしこおり)竹香(ちっこう)(本名・久美(くみ)、1855~1945年)です。県内の各学校で教えた後、女子大学の名門、奈良(なら)女子大学(奈良県奈良市)の前身である奈良女子高等師範(しはん)学校の創立(そうりつ)に合わせて招(まね)かれ15年間、教授(きょうじゅ)を務(つと)めました。

 竹香が育った家は代々、神職(しんしょく)を務める社家(しゃけ)で、父親は神官のほかに医師(いし)や教員、母親も小学校で裁縫(さいほう)を教える、教育に熱心な家庭でした。

 竹香は小さいころから、読み書きや裁縫などを教わりました。特に絵画(かいが)は10歳(さい)の時から画家の手ほどきを受け、好んで竹を描(えが)いたことから、後に師匠(ししょう)から竹香の号をもらいました。

 1873(明治6)年、17歳で小学校の習字世話係となり、教育者としてスタートします。正規(せいき)の教員資格(しかく)を得るため5年後に退職(たいしょく)して、新設(しんせつ)された松江(まつえ)女子師範学校(島根大学の前身の一つ)に入学。卒業後は主に県内で、裁縫や作法(さほう)の教員などを務めました。

 やがて「誠実(せいじつ)、おごらず、人の和」などを基本(きほん)に据(す)え、「生徒指導(しどう)に厳格(げんかく)な教育者」としての評価(ひょうか)が高まり1908(明治41)年、文部省(現在の文科省)から表彰(ひょうしょう)されました。

 そのことがきっかけの一つになり翌(よく)年、53歳の時に抜(ばっ)てきされて奈良女子高等師範学校の教授に就任(しゅうにん)。修身(しゅうしん)(=道徳(どうとく))と裁縫を教え、全寮制(ぜんりょうせい)の寄宿(きしゅく)寮の監督(かんとく)者である舎監(しゃかん)も務めて、生徒指導にも熱心に取り組みました。

 その傍(かたわ)ら、師範学校、中学校、高等女学校などの教員講習(こうしゅう)会の講師を務め、日本の女子教育推進(すいしん)のために力を尽(つ)くします。また、礼儀(れいぎ)作法の心得(こころえ)を説(と)いた「普通作法精義(ふつうせいぎ)」や裁縫、服装(ふくそう)関係など、数多くの著作(ちょさく)を出版(しゅっぱん)しています。

 1924(大正13)年に高齢(こうれい)のため退官し、50年を超(こ)す教育者を引退(いんたい)。古里で余生(よせい)を過(す)ごしました。没後(ぼつご)30年を記念して、斐川町と地元の老人クラブが竹香の遺徳(いとく)を紹介(しょうかい)した冊子(さっし)「錦織竹香女史をしのんで」(1978年)を発刊(はっかん)しています。

 また、母校の荘原(しょうばら)小学校(出雲市斐川町神庭)に立っている、江戸時代の農政(のうせい)家、思想家の二宮(にのみや)金次郎(きんじろう)(尊徳像(そんとくぞう)はもともと、竹香の寄付(きふ)金によって建立(こんりゅう)され、戦時中に金属(きんぞく)として供出(きょうしゅつ)されるなどの変遷(へんせん)を経(へ)て再建(さいけん)、現在に至(いた)っています。