息子の松亭広経が描いたと伝わる西山砂保の肖像画=松江市内中原町、松村憲樹氏所蔵
息子の松亭広経が描いたと伝わる西山砂保の肖像画=松江市内中原町、松村憲樹氏所蔵
シーボルトから西山砂保に贈られた西洋医学の修業証書=島根大学付属図書館所蔵
シーボルトから西山砂保に贈られた西洋医学の修業証書=島根大学付属図書館所蔵
西山 砂保の歩み
西山 砂保の歩み
息子の松亭広経が描いたと伝わる西山砂保の肖像画=松江市内中原町、松村憲樹氏所蔵
シーボルトから西山砂保に贈られた西洋医学の修業証書=島根大学付属図書館所蔵
西山 砂保の歩み

華岡青洲やシーボルトに学ぶ

 江戸(えど)時代後期、麻酔(ますい)、外科(げか)手術(しゅじゅつ)の西洋医学や漢方(かんぽう)など、当時の最新医学を学んだ名医が松江藩(はん)にいました。西山(にしやま)砂保(すなほ)(1781~1839年)です。病気に苦しむ人々を救(すく)い、教えを請(こ)う医学者への教育に一生を捧(ささ)げ「出雲(いずも)の近代医学の先(さき)駆(が)け」とたたえられています。

 砂保は、出雲国神門(かんど)郡荻原(おぎはら)村(現在(げんざい)の出雲市荻杼(おぎとち)町)で代々、医師(いし)を務(つと)めた西山家に生まれました。

 1800(寛政(かんせい)12)年、京都で漢方医学を修(おさ)め、古里に帰って治療(ちりょう)にあたります。しかし、世界で初めて全身麻酔を使った乳(にゅう)がんの外科手術を成功させた外科医、華岡(はなおか)青洲(せいしゅう)(今の和歌山県紀(き)の川(かわ)市出身)の名声を聞いて、最新医学の修得(しゅうとく)に情熱(じょうねつ)を燃(も)やします。11(文化8)年、再(ふたた)び古里を後にして青洲の私塾(しじゅく)を訪(おとず)れ、外科手術を学びました。

 麻酔薬の作り方、与(あた)え方から手術の実技(じつぎ)までみっちり勉強。大きな自信を得(え)て再び古里に帰り、西山家の診療所(しんりょうしょ)でがんの手術や潰瘍(かいよう)などの治療を行いました。

 1823(文政(ぶんせい)6)年には、ドイツ人医師(いし)のシーボルトが長崎に来日します。すると、西洋医学の名医としての名声が全国に広まり、砂保はシーボルトから学びたい一念(いちねん)で2年後、長崎に遊学(ゆうがく)。診療所を兼(か)ねた私塾の鳴滝(なるたき)塾で、最先端(さいせんたん)の西洋医学を教わりました。

 1826(文政9)年、シーボルトから西洋医学の修業(しゅうぎょう)証書(しょうしょ)を授与(じゅよ)されます。オランダ語で「西洋の内科、外科の治療術を勉学したことを証明(しょうめい)する」とつづられており、出島(でじま)上級医師シーボルトのサインがあります。出島は、江戸幕府(ばくふ)が建設(けんせつ)した人工島です。

 シーボルトの修業証書は国内で3人に宛(あ)てた4通しか確認(かくにん)されてなく、そのうち砂保に贈(おく)られた1通が現在、島根大学付属(ふぞく)図書館(松江市西(にし)川津(かわつ)町)に保管してあります。砂保の親戚(しんせき)の松村(まつむら)憲樹(けんじゅ)さん(松江市内中原(うちなかばら)町)が、島根大学に寄贈(きぞう)しました。

 出雲の郷土史(きょうどし)家・卜部(うらべ)忠治(ちゅうじ)らの研究によると、砂保は青洲流外科手術とシーボルトの修業証書を手にして古里に帰り、松江藩で最も高名な医学者になりました。

 治療を願う患者(かんじゃ)や最新医学を学びたい若(わか)い医師らが集い、宿泊(しゅくはく)所ができたほどでした。

 それらによって、松江藩9代藩主(はんしゅ)の松平(まつだいら)斉貴(なりたけ)から高く評価(ひょうか)され、藩医(はんい)を命じられたと記しています。