11日に松江市内であった県民手づくり「第九」コンサートを鑑賞した。新型コロナウイルス禍で演奏の自粛時期が長く、クラシックは久々だ▼後代の作曲家と比べ、ベートーベンは譜面上は難しくないとされる。ただ第九の舞台に立つ人は胆力がいると察した。否定と肯定を繰り返し内面をえぐるような曲構成と間合いは、日本の能楽にも通じる緊張感に満ちていた▼あれこれ巨匠が指揮したCDを聴き、音楽を予定調和のように捉えがちだったが、生演奏は別物。コロナ禍で忘れていた刺激だった。目の前の演奏がどう進むのかを固唾(かたず)をのんで見守った。また会場に足を運びたい▼第九がなければ、日本人の西洋音楽への理解はかなり遅れたはずだ。いろいろな状況で演奏された。高らかに人類愛を歌う内容ながら、戦時中は戦地へ赴く兵士を鼓舞。戦後はプロの楽団に加え労働運動や市民活動とも結びつき、ドイツ語や楽譜を読めない人たちも堂々と歌った。年末の風物詩として定着するほど、大量の名演、迷演が積み上がった曲だ▼コンサートの帰り際、日本人好みの別の曲を思い出した。絶望の極みといえる交響曲第6番「悲愴(ひそう)」。ロシアの大作曲家で、ルーツがウクライナにあるチャイコフスキーの名作だ。両国間にゆかりを持つ人は数多く、いたたまれない。第九を聴いて愛と平和を願い、悲愴で心情に寄り添うしかないのだろうか。来年も。(板)