大手紙のサイゴン(現ホーチミン)特派員としてベトナム戦争を取材した近藤紘一さん(1940~86年)は海外で斎藤茂吉の『万葉秀歌』を持ち歩いた。異邦で読む『万葉集』は底なしの井戸のようで、良くも悪くも日本人であることを教えてくれたという▼20代の頃、『サイゴンのいちばん長い日』など近藤さんの著書を愛読した。その深い世界を知りたい、と万葉秀歌も手にしたものの、本棚に眠ったままだ▼万葉集を若者にも気軽に触れてほしい、と高松市の出版社が昨秋発刊した一冊が人気を呼んでいる。歌を若者言葉で現代訳した『愛するよりも愛されたい』。約90首を紹介し、舎人皇子(とねりのみこ)の<ますらをや片恋せむと嘆けども醜(しこ)のますらをなほ恋ひにけり>は「イケメンの俺が片想(おも)いなんかするかよwっていってたけどしたわwww」といった具合。共感しやすく、万葉の世界に入る一歩になりそう▼全4500首の万葉集は恋の歌が多いが、早春の今、山部赤人の<明日よりは春菜(わかな)摘まむと標野(しめしの)に昨日も今日も雪は降りつつ>など歌を詠みたくなるような気配が野山にはあるだろう▼恋心は万葉集が編さんされた1300年前とそう変わらないかもしれないが、開発や気候変動、デジタル化で季節の機微を感じる機会や場所は年々減る。歌の情景が全く分からなくなり、伝えることすらできなくなるのではないか。手遅れになる前に、考えたい。(衣)