見舞いの手紙に対する永井博士の返信(1948年3月、雲南市永井隆記念館蔵)
見舞いの手紙に対する永井博士の返信(1948年3月、雲南市永井隆記念館蔵)

 78年前のきょう、長崎に投下された原爆で負傷した市民らの救護に生命を賭した雲南市三刀屋町出身の永井隆博士(1908~51年)は、類いまれな文才と絵心を持ち、病床にありながら17冊もの著書を残した▼被爆から3年後の1948年12月に発表した『生命の河』は、放射線治療を専門とした医学者であり、科学者であった博士の原点を記した著作として知られる▼結核を診断するためのエックス線検査で、戦時中の不十分な施設の中で許容量以上の放射線を浴びたために白血病を患い、被爆前に余命3年の宣告を受けていたことは周知の話。それでも著書の末尾に<原子病の心配なく、原子力を思うままに用いる時はやがて来る>とつづった▼原子力の誤った利用法の最たるものである原爆によって、自身も、愛すべき隣人も、筆舌に尽くしがたい辛酸をなめながらも、科学そのものに対しては希望を持ち続けた。その殉教精神に圧倒される▼現代では、博士が手がけた放射線治療は飛躍的な発達を遂げ、欠かせない存在になった。さらに博士の死去後に稼働を始めた原子力発電所も、経済発展に寄与した。だが、兵器がいまだ存在することはもとより、原発にしても、発電所の安全性や放射線そのものに対して住民が抱える不安が拭いきれない現状を思うと、博士が理想に掲げた原子力の平和利用の世は本当に来たのだろうか、と考えざるを得ない。(万)