首里城の地下に広がる第32軍司令部壕
首里城の地下に広がる第32軍司令部壕

 80年前の沖縄戦。ちょうど今頃の時期、首里城の地下壕(ごう)で指揮を執っていた日本軍の第32軍司令部は拠点を捨てて、南方の喜屋武(きゃん)半島へ撤退した。沖縄戦が終結した「記念日」の6月23日に毎年、現地で追悼式が行われる。

 一方で、地下壕は長い間忘れられた存在だったが、近年「戦争遺跡」として公開を目指す動きが活発だという。沖縄の民間団体「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」から送られてきた資料で知った。

 沖縄県も積極的に動き、昨年11月に県の史跡に指定。公開するためには劣化が進む壕の安全確保などが必要で、実現にはまだ年数がかかるだろう。とはいえ、保存・公開の意思は官民で一致、継続している。

 沖縄戦を象徴する最後の激戦地・摩文仁(まぶに)の丘だけでなく、この壕を重視するのは、当時の沖縄県民の4分の1が亡くなった「軍民混在」の修羅場を招いた原因や、指揮の実相を語り継ぎたいからだという。そこには司令部ナンバー3の高級参謀で、生還して後に手記を残した米子市出身の八原(やはら)博通(ひろみち)(1902~81年)の名前も出てくるに違いない。

 持久戦略を説いた彼の持論は、後に敵方の米国から高く評価された。しかし、沖縄から見ると「負の遺産」に違いはなく、厳しい視点からの検証があろう。それでも記録が風化するよりは良い。この戦争の実態を巡り、政治家のあやふやな記憶に基づく発言を許さないためにも。(万)