枝の断面も赤い紅梅の木=松江市内
枝の断面も赤い紅梅の木=松江市内

 梅の雨と書いて「つゆ」。梅の実が熟す季節に当たる。今夏も猛暑と覚悟させる晴天続きの梅雨の日の夕暮れ、実家の庭の紅梅の木に登った。

 伸び放題の枝に、揺らせば降るほどの鈴なりの実。収穫と思えば贅沢(ぜいたく)だが、熟して落ちれば隣家の庭先を汚す。忌々(いまいま)しい思いで脚立を持ち出し、枝先に手を伸ばした。一つ一つ籠に入れていたのでは追い付かないほど実った枝にはのこぎりを当て、勢いに任せて引き続けた。

 その日一番の太い枝を切り落とした時、驚きで手が止まった。目の前に現れた枝の断面が春の訪れを告げる花と同じ紅色だった。知らなかった。

 桜で染めた糸で織った鮮やかな着物。その美しいピンクの色を出したのは花びらではなく、黒っぽい樹皮だった-。染織家志村ふくみさんとの対話から人の内面と言葉の関係を捉えた、詩人大岡信さんの随筆を思い出した。中学の教科書にもある名文だ。「木全体の一刻も休むことのない活動の精髄」が花や花びらという現象であり、人の言葉である。

 <桜切るばか、梅切らぬばか>ということわざは、木の特性や時期を考えて手をかけろという戒め。本来の意味とは正反対の愚行にも、物言わぬ木々は、内なる自分から発せられる言葉の重さを教えてくれた。自省を込めて、しばし物思いにふけった。すると思考は、失言、謝罪を繰り返す政治家の言葉の軽さへ。忌々しい思いまでぶり返してきた。(吉)