空襲で「基本的空間」確信 戦中から非凡な設計構想
暖炉から延びる煙突だった。太平洋戦争中、米軍の空襲を受けた直後、菊竹清訓(1928~2011年)はほぼ跡形なく焼け落ちた邸宅の残骸(ざんがい)の中で、じっとそれを見ていた。
当時、早稲田大の「学園防衛隊」の一員として、空襲や警戒警報が出れば学校に駆け付ける役目だった。空襲は日増しに激しくなっていくばかり。毎度の出動では間に合わず、学内の大隈会館(旧・大隈重信邸)に寝泊まりしていた。
1945年3月以降の空襲は苛烈(かれつ)だった。学内では襲ってくる米軍機に高射砲で応戦するが届...