平塚運一=1995年2月撮影
平塚運一=1995年2月撮影
平塚運一の遺族から、創立100周年を迎えた松江商業高校に贈られた作品を見る関係者=2000年9月28日、松江市浜乃木の同校で撮影
平塚運一の遺族から、創立100周年を迎えた松江商業高校に贈られた作品を見る関係者=2000年9月28日、松江市浜乃木の同校で撮影
平塚運一の歩み
平塚運一の歩み
平塚運一=1995年2月撮影 平塚運一の遺族から、創立100周年を迎えた松江商業高校に贈られた作品を見る関係者=2000年9月28日、松江市浜乃木の同校で撮影 平塚運一の歩み

黒と白の芸術 普及に情熱

 松江(まつえ)市出身の版(はん)画(が)家、平塚(ひらつか)運(うん)一(いち)(1895~1997年)は、木版画を普(ふ)及(きゅう)させ、芸(げい)術(じゅつ)の一ジャンルに高めることに情(じょう)熱(ねつ)を燃(も)やしました。今年11月17日に生(せい)誕(たん)125年を迎(むか)えます。

 運一は、雑賀(さいか)小学校を卒業し、現在(げんざい)の松江商業高校を中(ちゅう)退(たい)後、上京(じょうきょう)し洋画家の石(いし)井(い)柏(はく)亭(てい)に洋画を、木版彫(ほ)り師(し)の伊(い)上(がみ)凡骨(ぼんこつ)に木版画を学びます。

 柏亭について「画家を志(こころざ)したころ、デッサンの厳(きび)しさを教えられ、以来、今日に至(いた)るまで一日もデッサンを欠かしたことはありません」と85歳(さい)記念版画展(てん)の画集のあとがきに記しています。

 江戸時代の浮(うき)世(よ)絵(え)は絵(え)師(し)、彫り師、刷(す)り師(し)の分業によって制作(せいさく)されたものでした。それに対して、明治時代後期以(い)降(こう)に始まった創作(そうさく)版画運動は基(き)本(ほん)的に1人の人が行い、複製(ふくせい)でないことにこだわりました。運一は日本創作版画協会の会員になり、創作版画運動に加わります。

 大正時代の終わりごろから版画の源(げん)流(りゅう)と考える仏(ぶっ)教(きょう)版画や、寺院のお堂(どう)、塔(とう)などの屋根を飾(かざ)った古(ふる)瓦(がわら)の収(しゅう)集(しゅう)、研究を始めました。

 昭和時代の初めごろには版画講(こう)師(し)となって全国を巡(めぐ)り、版画の普(ふ)及(きゅう)に努めます。木版画家の棟方(むなかた)志(し)功(こう)らと版画雑(ざっ)誌(し)も創刊(そうかん)しました。

 芸術としての版画の評(ひょう)価(か)が高まり1935(昭和10)年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に版画教室が開講されると教(きょう)壇(だん)に立って教えます。

 また、1949(昭和24)年に出版(しゅっぱん)した「版画の研究と技(ぎ)法(ほう)」は版画の教科書として読まれ、指(し)導(どう)的(てき)役割(やくわり)を果たしました。50年代半ばからは、色(いろ)刷(ず)り版画から黒白版画に一層(いっそう)、力を入れます。

 1962(同37)年には、木版画家の三女の招(まね)きで渡米(とべい)。活動拠(きょ)点(てん)を首都ワシントンD(ディー)C(シー)に置きます。意(い)欲(よく)的に作品を制作し、全米各地の大学、美術館などで個(こ)展(てん)や、版画をテーマにした講演(こうえん)会を開(かい)催(さい)。アメリカでも版画の普及に努力を惜(お)しみませんでした。

 「ごまかしがきかない」と引き込(こ)まれ、ライフワークとして73歳で始めた裸(ら)婦(ふ)の作品集「裸婦百(ひゃく)態(たい)」を7年の歳月をかけて1975(昭和50)年に完成させます。

 95(平成7)年、帰国し、松江で百歳記念展を開催。2年後、102歳で亡(な)くなりました。松江市名誉(めいよ)市民に選ばれています。