タイトル戦で大山康晴名人(右)に挑んだ挑戦者の升田幸三九段=1966年6月、東京都内
タイトル戦で大山康晴名人(右)に挑んだ挑戦者の升田幸三九段=1966年6月、東京都内

 79年前の記憶とともに悲しみの夏が巡って来た。当時を生きた人が減り「記録」と化しているかもしれない。だが遠くない昔に命が軽く扱われ、多くの有為な人材を失った時代があったことを伝えねばならない。いつ繰り返されてもおかしくないのだから。

 将棋の実力制第4代名人・升田幸三(1918~91年)は1957年、当時の全タイトルを独占し三冠となった。熱狂はすさまじく棋界の黄金期の一つだ。放言癖も魅力だった。終戦後に連合国軍総司令部(GHQ)で5、6時間、将棋の擁護論をまくし立てたというから、講談師でも一流になれそうだ。

 自著の将棋の話は盤外戦も含め勇ましいが、母親の思い出は浪花節的になる。戦況が悪化した43年、召集され太平洋の島へ向かうことになった。海域は敵艦が待ち構え、目的地到達も危うい。

 母が面会に駆けつけたが、出発後で間に合わなかった。落胆し息子が通ったであろう道に座り込み、荒れた地面を何度もさすった。やがて手から血がにじんだ。雄弁な升田に限らず、こんな後日談はあちこちであっただろう。多くの涙とともに。

 6日の広島に続き、長崎の原爆の日を迎えた。現在の広島県三次市で育った升田は13歳で家出し、最初に着いたのが広島市だった。縁のある町で、被爆後間もない姿も見た。残した言葉は少ない。筆舌に尽くしがたい惨状が、豪放磊落(らいらく)な男をも黙らせたのだろうか。(板)