毎年、お盆の前に思い出す風景がある。先祖の霊を迎える準備として墓に色とりどりの「盆灯籠」を飾った。普段は殺風景な墓地がこの時期だけは見違えるように華やかな場所になった。
今も一部のコンビニに灯籠を置いているが、昔は各家庭が大量に必要としたので地元の雑貨店でも売っていた。涼しい時間帯を狙い、大人も子どもも掃除道具と灯籠を抱え墓地まで歩く。灯籠の紙飾りが風に揺れ、小さな祭りのようだった。
あれから約半世紀、帰省した親戚と話すのは「墓問題」。実家の墓じまいをどうするか、誰が管理するか、寄せ墓にするか遠くに移すか、何年も同じ話の繰り返し。「実家建物問題」や「仏壇問題」も含めて粗末に扱えないだけに頭が痛い。
数年前「寺に墓地(を広げるための土地)を寄付した」親戚の墓に参ると、本人の戒名は血縁のない人と並んで共同墓に刻まれていた。跡継ぎがいないので寺が管理してくれるのは安心だが、正直少し驚いた。機械式納骨堂や樹木葬など、墓の形にも時代の流れが押し寄せている。
「家」へのこだわりは古いのかもしれない。とはいえ、日本的死生観がにじむお盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))の行事や「先祖の供養」をすることで心には安らぎが生まれる。伸び放題の雑草に足を取られ、蚊に悩まされても、墓参りができることは幸せなことだと思っている。<盂蘭盆会 遠きゆかりと ふし拝む>(高浜虚子) (裕)