太平洋戦争で平和に対する罪を問われて極刑になった東条英機元首相らA級戦犯7人の遺骨を「太平洋にまいた」とする米公文書が見つかった。7人の遺骨の行方は「昭和史の謎」とされていたものの、機密解除で明るみとなり、大きなニュースとなった▼このほか戦争指導者や、捕虜に危害を加えたなどの罪を問われたBC級戦犯にも極刑が言い渡された。戦犯を収容した東京・巣鴨プリズンで教誨(きょうかい)師を務めた花山信勝の著書『平和の発見』(1949年発行)を読者から薦められて手にした▼花山は34人の戦犯と向き合った。一人一人の最期を記述する中で、島根県出身者に目が留まった。益田市出身の福原勲元大尉。大牟田俘虜(ふりょ)収容所(福岡県)で起きた米兵の死亡事件で責任を問われた。処刑を前に、福原元大尉は<朝風になびくを見渡し彼の土より平和日本の日の丸の旗>と詠んだ。裁判は不条理だったが、福原元大尉は信仰を深め、周囲に感謝しながらその時を迎えたという▼福原元大尉は古里に親や妻子があったが、「軍規」を理由にすぐに遺骨は返されなかった。発見された公文書からは、BC級戦犯も散骨された可能性が読み取れるという▼戦後七十余年が過ぎ「墓じまい」という言葉が当たり前になった。戦争で古里の墓に入れなかった犠牲者は数え切れない。鎮魂の思いを向ける中で、「平和日本」の供養の在り方に複雑な思いを抱く。(釜)