日本詩人クラブ会長を務めた安部宙之介
日本詩人クラブ会長を務めた安部宙之介
県立大社高校の敷地内に建立された安部宙之介詩碑。大社高校はその後、移転(いてん)し、現在は出雲市立大社中学校になっています=同市大社町
県立大社高校の敷地内に建立された安部宙之介詩碑。大社高校はその後、移転(いてん)し、現在は出雲市立大社中学校になっています=同市大社町
安部 宙之介の歩み
安部 宙之介の歩み
日本詩人クラブ会長を務めた安部宙之介 県立大社高校の敷地内に建立された安部宙之介詩碑。大社高校はその後、移転(いてん)し、現在は出雲市立大社中学校になっています=同市大社町 安部 宙之介の歩み

詩の指導や研究に励む

 島根県仁多(にた)町(現在(げんざい)の奥出雲(おくいずも)町)出身の安部(あべ)宙之介(ちゅうのすけ)(1904~83年)は、日本詩人クラブ会長を務(つと)め、県内外の後進(こうしん)の育成や詩の研究に尽(つ)くした詩人でした。

 宙之介は1923(大正12)年、島根県師範(しはん)学校(現在の島根大学)を卒業し、邑智郡内の小学校教員になります。翌(よく)年に初めての詩集「稲妻(いなづま)」を出し、詩人としての第一歩を踏(ふ)み出しました。

 文学への志(こころざし)を抱(いだ)き、3年間の教員生活に区切りをつけて上京。大東(だいとう)文化学院(現在の大東文化大学)に学びます。1929(昭和4)年に帰県し11年間、県立大社(たいしゃ)中学校(=旧制(きゅうせい)大社中学校、現在の県立大社高校)に勤(つと)め、この間に「白き頁(ページ)と影(かげ)」など4冊(さつ)の詩集を発刊(はっかん)しました。

 いろいろな詩誌(しし)を次々に出し、周りには文学を愛好する生徒らが集まるとともに、多くの詩人らに影響(えいきょう)を与(あた)えました。その詩人たちも活躍(かつやく)し、島根の現代詩の発展(はってん)に貢献(こうけん)しました。

 県立大社中学校を辞職(じしょく)して上京。さまざまな文学者と交流し、新設(しんせつ)された日本詩人クラブのお世話役を務(つと)めます。

 1961(昭和36)年に山陰(さんいん)詩人クラブが結成されると顧問(こもん)に就任(しゅうにん)。詩誌「山陰詩人」への協力を惜(お)しまず「身はどこにあっても島根の詩人である」という意識(いしき)を持ち続けていました。

 童謡(どうよう)「赤とんぼ」の作詞(さくし)で知られる詩人・三木(みき)露風(ろふう)の業績(ぎょうせき)を初めてまとめた「三木露風研究」正・続や「露風全集」全3巻(かん)を発刊。露風研究の第一人者との評(ひょう)価(か)を得(え)ました。

 1972(昭和47)年、西条(さいじょう)八十(やそ)、中西(なかにし)悟堂(ごどう)に続く第3代の日本詩人クラブ会長に就任(しゅうにん)し、5年間務(つと)めました。

 これを記念し、功績(こうせき)をたたえる安部宙之介詩碑(しひ)が1974(昭和49)年、当時の大社高校敷地(しきち)内に建立(こんりゅう)されました。(その後、大社高校は移転(いてん)し、現在は出雲(いずも)市立大社中学校になっています)

 建立には、往年(おうねん)の県立大社中学校関係者や「山陰詩人」など、県内外の詩人関係者ら約400人が尽力(じんりょく)しました。

 詩碑には「残る青」の一節

「ここまでたどり着いて
 誰(だれ)ひとり見えない
 うつむくな
 僅(わず)か空に残る
 あの青を信じるがよい」

 が刻(きざ)まれています。