小林徳一郎(瑞穂町閉町記念誌「還翠」より)
小林徳一郎(瑞穂町閉町記念誌「還翠」より)
小林徳一郎が寄進した出雲大社の大鳥居=出雲市大社町杵築南
小林徳一郎が寄進した出雲大社の大鳥居=出雲市大社町杵築南
小林 徳一郎の歩み
小林 徳一郎の歩み
小林徳一郎(瑞穂町閉町記念誌「還翠」より) 小林徳一郎が寄進した出雲大社の大鳥居=出雲市大社町杵築南 小林 徳一郎の歩み

事業成功し各地に寄付

 出雲大社(いずもたいしゃ)を参拝(さんぱい)すると、神門(しんもん)通りで高さ23メートルもある巨大(きょだい)な大鳥居(おおとりい)が目を引きます。2015(平成27)年に国の登録有形文化財(ぶんかざい)になったこの大鳥居を寄進(きしん)したのが、島根県邑南(おおなん)町高原(たかはら)地区出身の実業家小林(こばやし)徳一郎(とくいちろう)(1870~1956年)です。

 徳一郎は高原地区の清四郎(せいしろう)、ツルのもとに生まれました。少年時代は貧(まず)しく、決して幸せだったとは言えず、16歳(さい)のとき、わずかのお金を手に郷土(きょうど)を後にし、石炭景気にわく北九州へ赴(おもむ)き、炭鉱(たんこう)作業員として働くなど苦労を重ねました。

 その後、土木請負(うけおい)業や朝鮮(ちょうせん)での鉱山(こうざん)経営(けいえい)など事業を拡大(かくだい)し、成功を収(おさ)めました。

 交流のあった大物政治家(せいじか)大野(おおの)伴睦(ばんぼく)の回想録には、徳一郎の豪快(ごうかい)な人柄(ひとがら)が多くのページを割(さ)いて紹介(しょうかい)されています。

 その中で1915(大正4)年建造(けんぞう)の出雲大社の大鳥居寄進の経緯(けいい)にも触(ふ)れており、徳一郎が少年のころに出雲大社を参拝した際(さい)、九州の実業家が落とした懐中(かいちゅう)時計を拾って差し出した縁(えん)で九州に招(まね)かれたとされています。

 これが成功への幕開(まくあ)けとなったことから感謝(かんしゃ)の気持ちを込(こ)めて、その場所に大鳥居を寄進したということです。

 大成した後も、私(し)生活は極力質素(しっそ)にする半面、神社仏閣(ぶっかく)には惜(お)しげもなく寄進や寄付を重ねたと言います。

 地元へは愛郷の思いから、無医村解消(かいしょう)のため邸宅(ていたく)の寄付や、村の振興(しんこう)にと山林の寄付、中学校建設(けんせつ)基金(ききん)援助(えんじょ)など数々の貢献(こうけん)をしました。

 1940(昭和15)年には地元に「石碑(せきひ)」、62(昭和37)年には「胸像(きょうぞう)」が建立(こんりゅう)されるなど、住民の徳一郎に寄(よ)せる感謝の念はあついものがありました。

 戦前、貴族院(きぞくいん)議員に推(お)されながら「私(わたし)の柄(がら)ではない」と頑(がん)として受けなかった徳一郎ですが、1950(昭和25)年には、住んでいた小倉(こくら)市(現在(げんざい)の北九州市)の市制(しせい)50周年の席上で市の功労者(こうろうしゃ)として表彰(ひょうしょう)されました。