太平洋戦争末期の沖縄戦で組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」が過ぎ、暑さとともにセミの声が大きくなると、戦争の「残痕」が浮かんでくる。77年前のきょう、雲南市三刀屋町で幼少期を過ごした永井隆博士(1908~51年)が暮らした長崎に原子爆弾が落とされた▼2012年夏、足跡を追って長崎市を訪ねた。原爆資料館では11時2分で止まったままの柱時計が掛かり、原爆「ファットマン」の模型は背丈より高かった。爆心地近くの浦上天主堂下に落下したままの鐘楼ドームと、柱1本で立つ鳥居が惨劇を伝える証人のように残っていた▼永井博士は長崎医科大で取り組んだ放射線の研究により白血病と診断された。原爆で被爆し重傷を負いながらも救護活動に尽力。出雲市斐川町出身の教育者江角ヤス(1899~1980年)も治療を受けた▼それから77年。ロシアのウクライナ侵攻で原発が攻撃対象となり、核の脅威が世界を揺るがす中で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議。もう一つの被爆地選出の岸田文雄首相は「長崎を最後の被爆地に」と訴えたが、核兵器禁止条約には言及しなかった▼「『平和を!』この願いを一番強く叫びたがっているのは、将軍でもなく、社会運動家でもなく、政治家でもなく、実に私たち町民なのです」。博士が願った平和は今もかなうことなく、77回目の長崎原爆の日を迎える。(目)