「みずばち」が収められた幸田文のエッセー集『季節のかたみ』
「みずばち」が収められた幸田文のエッセー集『季節のかたみ』

 「罰が当たる」という戒めの言葉を聞くことが減った。罰の中でも「水罰(みずばち)」はすっかり消えた、と明治生まれの幸田文は46年前のエッセーに記す▼幸田は20歳で東京の町中に引っ越すまで井戸を利用した。夏は冷たく冬は温かく、天地自然のおかげさまという思いは共通しており、水を粗末にすると親から「今に水罰があたって水で不自由する」と〓(口ヘンに七)られた。洗濯のすすぎ水は井戸端を洗い、雑巾をすすぎ、道のほこり止めにまいた。ちょろりと流すと「おまえに水がこしらえられるか」と続いたという。現代っ子ならそんな〓(口ヘンに七)り方では納得せず「科学的根拠は」と返しそうだ▼井戸からくもうが蛇口をひねろうが、水源は山や川、大地にあり、先人は山をあがめて、水脈を守ってきた。今、コンクリート構造物で山は切り崩され、水脈は分断されるが、その利便性が勝り、罰とも言い換えられる影響には目を背けがちだ▼島根県内の複数の山で、民間による大規模な風力発電所の計画がある。山が「お荷物」となった地権者の事情は察しつつも、各山の尾根に10基以上が建つ事業の有形無形の影響が気にかかる▼水道水の生活に慣れ、節水を怠ったという幸田はエッセーをこう結んだ。「言葉が消えたとき心も消え、言葉と心が消えたあと、じわじわと大水罰が当りはじめるのかなあ、と思う」。心を消さないため、おかげを刻む言葉の出番はまだある。(衣)