光源氏が女性問題で都を離れることになった際、別れの歌を詠んだ。<生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな>。対する紫の上は恋心と涙を抑えて、こう返した。<惜しからぬ命にかえて目の前の別れをしばしとどめてしがな>▼『源氏物語』は高貴で美男、万事で優れた才覚を持つ主人公・光源氏を取り巻く女性たちの苦悩を描く。各登場人物の心情を直接的に表すのが800首弱あるとされる和歌で、読み手を引き込む。会いたい、切ないと、情念がほとばしる▼現代で「歌の力」と聞くと音楽を連想しがちだが、和歌・短歌も31字に思いを凝縮させ、力強い。最近、その魅力を痛感した一冊の大学ノートに出合った。2013年末まで有福温泉(江津市有福温泉町)にあった被爆者療養宿泊施設「有福温泉荘」で、利用者が思い思いに書き残したものだ▼「湯に浸り櫻(さくら)眺めて有(あり)難(がた)や一人喜ぶ身の幸福(しあわせ)を」。保管者から借りたノートを開くと、真っ先に目が向いたのは被爆者が詠んだ短歌の数々だった。平凡な日常と自然をこよなく愛する人たち。遠くに思っていた存在に急に親しみを覚えた▼詠みやすい春になった。卒業・入学、就職、転勤には出会いと別れがいつもあり、野山も新しい花が顔を見せ始め、日々装いを変える。出来栄えはまあいい。喜びも悲しみも、感謝も恨み節も、思いを込めて表してみる時季。歌の懐は深い。(板)