大辻町大元神社にある田中清見の碑=浜田市大辻町
大辻町大元神社にある田中清見の碑=浜田市大辻町
石見神楽の大蛇の一場面(資料)
石見神楽の大蛇の一場面(資料)
田中 清見の歩み
田中 清見の歩み
大辻町大元神社にある田中清見の碑=浜田市大辻町 石見神楽の大蛇の一場面(資料) 田中 清見の歩み

名人芸の舞 住民に教える

 「好きこそものの上(じょう)手(ず)なれ」と言います。ある物事を大好きなことが、上達への一番の近道になるという意味です。浜(はま)田(だ)市出身の田(た)中(なか)清(すが)見(み)(1814~97年)は石(いわ)見(み)神楽(かぐら)をとても愛した人でした。その愛で舞(まい)の達人になっただけでなく、周りの人にも伝えました。今、島根県西部で石見神楽がとても盛(さか)んですが、田中の活動は見(み)逃(のが)せません。

 約150年前に明治という新時代になりました。西洋から物が次々と入る一方、日本にあったものは見直されました。明治政(せい)府(ふ)が、神社の神(かん)主(ぬし)が舞うのを禁(きん)止(し)したのもその一つです。神楽は代々、神主が舞うものでしたができなくなり、氏(うじ)子(こ)や住民が舞うようになりました。

 舞い手が増(ふ)えると考え方もばらばらになってまとまりがなくなり、舞(ぶ)台(たい)の上での言葉や動きの乱(みだ)れが問題になりました。そこで専(せん)門(もん)家(か)や研究者が統(とう)一(いつ)した台本を作り、舞い方も工夫しました。そうした努力の中から、石見神楽独(どく)特(とく)の軽(けい)快(かい)なリズムによる「八(はっ)調(ちょう)子(し)神楽」の誕(たん)生(じょう)につながったと考えられます。

 田中は、そんな石見神楽が変わろうとする時期に指(し)導(どう)に没(ぼっ)頭(とう)しました。浜田藩(はん)士(し)の家に生まれ、幼(おさな)くして神主の田中家の養子となったところから、その後の生き方が定まったようです。神社の舞を覚え、とても上手。地元で評(ひょう)判(ばん)になるほどでした。太(たい)鼓(こ)でも実力を発(はっ)揮(き)しました。

 地元の人たちは新しい八調子神楽を覚えようとうずうずしていました。テンポが速く活発なので気持ちが良かったのでしょう。田中は教えて回り、中でも細谷(ほそだに)地区(浜田市)の人たちとの関わりが知られています。舞の評判を聞いた石見神楽細谷社(しゃ)中(ちゅう)の人たちに頼(たの)まれると、家から12キロ離(はな)れた細谷地区へ徒歩で3時間かけて通い続けました。

 教え方は丁(てい)寧(ねい)。一人一人の体つきや体(たい)格(かく)を注意深く観察し、それぞれで教え方を変えました。そして厳(きび)しい。いいかげんな舞は許(ゆる)さず正しくできるまで新しい舞は教えませんでした。八調子は速いので舞うのが難(むずか)しく舞台で述(の)べる言葉も長くて、細谷地区の人たちはとても苦労しました。けれど、田中は根気強く教え立(りっ)派(ぱ)な社中にしました。

 今、浜田市三階町(さんがいちょう)の細(ほそ)谷(だに)王(おう)子(じ)八(はち)幡(まん)宮(ぐう)と、田中が過(す)ごした大辻町(おおつじちょう)大元(おおもと)神社(浜田市大辻町)に田中をたたえる碑(ひ)が立っています。数ある神楽指導者の中でも最大級の功(こう)績(せき)があったことが分かります。石見神楽は世界的にも人気を博していますが、田中のような人たちの奮(ふん)闘(とう)で成り立っていることを忘(わす)れてはなりません。