堀江友声の代表作「百花群鳥図」=1856年制作、出雲市の手銭記念館蔵
堀江友声の代表作「百花群鳥図」=1856年制作、出雲市の手銭記念館蔵
堀江 友声の歩み
堀江 友声の歩み
堀江友声作「阿蘭陀人白象洗図」=松江市の島根県立美術館蔵
堀江友声作「阿蘭陀人白象洗図」=松江市の島根県立美術館蔵
堀江友声の代表作「百花群鳥図」=1856年制作、出雲市の手銭記念館蔵 堀江 友声の歩み 堀江友声作「阿蘭陀人白象洗図」=松江市の島根県立美術館蔵

きめ細かく鮮やかな花鳥画

 堀(ほり)江(え)友(ゆう)声(せい)(1802~73年)は、江戸(えど)時代の島根県を代表する画家の一人です。写生に基(もと)づき鮮(あざ)やかな色をつかって、花や鳥などをきめ細かく描(えが)きました。

 友声は、現在(げんざい)の雲南(うんなん)市大(だい)東(とう)町に生まれました。小さいころから絵を描くのが好きで、15歳(さい)の時、京都へ行き、日本の画家集団の中で最も大きな狩野(かのう)派や、京都で大きな勢力(せいりょく)だった四(し)条(じょう)派の写生を重(じゅう)視(し)した絵を学びます。

 10代から20代にかけて、絵を描くために各地を歩いた後、1830(天(てん)保(ぽう)元(がん))年に再(ふたた)び京都を訪(おとず)れ、頼(たの)まれて約1年間、安(あ)土(づち)桃(もも)山(やま)時代から続く絵の名門・海(かい)北(ほう)家(け)の養(よう)子(し)になります。京都の画家集団の中でも高い評(ひょう)価(か)を受けていました。

 公家(くげ)の養女(ようじょ)が、第13代将(しょう)軍(ぐん)の徳(とく)川(がわ)家定(いえさだ)に嫁(とつ)ぐ際(さい)の贈(おく)り物を描く名誉(めいよ)も得ています。

 その後、京都府の北部、日本三景(さんけい)の天(あまの)橋(はし)立(だて)で有名な宮(みや)津(づ)城下で数年を過(す)ごし、数多くの作品を残しました。

 宮津藩(はん)から藩(はん)士(し)として待遇(たいぐう)したいとの話が出るほどでしたが、断(ことわ)って古里の大東に帰ります。

 この後の10年間に出(いず)雲(も)地方の各地で作(さく)画(が)活動し、優(すぐ)れた絵を残したと考えられています。円山(まるやま)派(は)創(そう)始(し)者(しゃ)の円山応(おう)挙(きょ)ら「京都風」絵画などを、出雲地方の愛好者の求めに応じて描きました。

 1851(嘉(か)永(えい)4)年には、現在(げんざい)の安(やす)来(ぎ)市広(ひろ)瀬(せ)町周辺を本(ほん)拠(きょ)地(ち)とした広瀬藩の松(まつ)平(だいら)家9代藩主松平直(なお)諒(あき)の初めてのお国入りのため、ふすまなどの新調にかかわります。

 直諒から仕事ぶりを評価され翌(よく)年、友声は広瀬藩の専属(せんぞく)絵師になります。仕事は広瀬藩(はん)邸(てい)や江戸屋(や)敷(しき)のふすま、天(てん)井(じょう)絵を描いたり、直諒に絵を指(し)導(どう)するなど多(た)岐(き)にわたりました。

 1873(明治6)年、広瀬で71歳の生(しょう)涯(がい)を終えました。