有本松太郎=「皆生温泉開湯100年祭」記念誌から
有本松太郎=「皆生温泉開湯100年祭」記念誌から
有本松太郎が基盤を築き、開発100周年を迎えた皆生温泉。松太郎は、眼前に弓ケ浜が広がり、大山の雄姿を仰ぎ見る景勝地に心を奪われた=皆生温泉旅館組合提供
有本松太郎が基盤を築き、開発100周年を迎えた皆生温泉。松太郎は、眼前に弓ケ浜が広がり、大山の雄姿を仰ぎ見る景勝地に心を奪われた=皆生温泉旅館組合提供
有本 松太郎の歩み
有本 松太郎の歩み
有本松太郎=「皆生温泉開湯100年祭」記念誌から 有本松太郎が基盤を築き、開発100周年を迎えた皆生温泉。松太郎は、眼前に弓ケ浜が広がり、大山の雄姿を仰ぎ見る景勝地に心を奪われた=皆生温泉旅館組合提供 有本 松太郎の歩み

開発100周年 基盤築く

 山陰(さんいん)有数の温泉地として知られる米(よな)子(ご)市の皆(かい)生(け)温泉(おんせん)。今年は温泉開発100周年を迎(むか)えました。皆生海岸に面する地に魅(み)力(りょく)を感じて資(し)産(さん)をつぎ込(こ)み、一大温泉地の基(き)盤(ばん)を築(きず)いたのが実業家の有本(ありもと)松(まつ)太(た)郎(ろう)(1863~1941年)です。

 松太郎は兵(ひょう)庫(ご)県浜坂(はまさか)町(ちょう)(現(げん)在(ざい)の新温泉町)に生まれました。土木工事に従事(じゅうじ)し、各地を転々とします。日(にち)露(ろ)戦争が始まった1904(明治37)年、満(まん)州(しゅう)に渡(わた)り、鉄道工事を請(う)け負(お)って多くの財(ざい)産(さん)を得(え)ました。明治時代の終わりごろには、国鉄(現在のJR)山陰線建(けん)設(せつ)工事をきっかけに米子に定(てい)住(じゅう)します。

 1900(明治33)年、皆生海岸の浅(あさ)瀬(せ)に湧(わ)き出す温泉が偶然(ぐうぜん)、発見されました。日(ひ)野(の)川(がわ)が運ぶ土(ど)砂(しゃ)によって、岸が年々せり出し、30年間で200メートルも沖(おき)に延(の)びて、海底にあった泉(せん)源(げん)が浅瀬で確認(かくにん)できるようになっていました。

 しかし、波に洗(あら)われる海岸では温泉開発は思うようにできず、何人もが挫(ざ)折(せつ)しました。

 1918(大正7)年、鳥取県議会議員に初当選した松太郎は、眼前(がんぜん)に弓ケ浜(ゆみがはま)が広がり、東に大山(だいせん)の雄(ゆう)姿(し)を仰(あお)ぎ見る景(けい)勝(しょう)地(ち)に心を奪(うば)われました。

 1920(大正9)年、先人たちの夢(ゆめ)だった温泉開発に乗り出します。海中調(ちょう)査(さ)を開始し翌(よく)年(とし)、皆生温泉土地(現在の皆生温泉観光)株式(かぶしき)会社を設立(せつりつ)。松太郎が社長を務(つと)めます。湯量を確(かく)保(ほ)し、区(く)画(かく)整(せい)理(り)の行き届(とど)いた温泉街を建設するという、壮大(そうだい)な皆生温泉開発計画をスタートさせました。

 ほどなく泉源を掘(ほ)り、次々に旅館が開業します。米子電車軌(き)道(どう)株式会社を設立し、1925(大正14)年には米子―皆生間に路面電車を走らせます。皆生海浜(かいひん)公園の周りに競(けい)馬(ば)場(じょう)も造(つく)られ、37(昭和12)年ごろまで毎年春と秋に競馬が開かれました。松太郎は34(昭和9)年、71歳(さい)で会社経営(けいえい)から退(しりぞ)きます。

 海岸に離(り)岸(がん)堤(てい)(浸食(しんしょく)を防(ふせ)ぐため、沖に設(もう)ける堤防(ていぼう))が築かれると砂(さ)州(す)が出(しゅつ)現(げん)し1978(昭和53)年、20年ぶりに海水浴場を再(さい)開(かい)。環境(かんきょう)省の「水(すい)浴場88選」に選ばれ、日本で初めて開催(かいさい)したトライアスロン大会も続けられています(今年はコロナで中止)。

 皆生温泉の旅館街は発展(はってん)し、弓ケ浜は「日本の渚(なぎさ)百選」「日本の白砂青松(はくしゃせいしょう)百選」にも選ばれました。

 今年3月には、皆生温泉と境(さかい)港(みなと)市の竹内(たけのうち)団地(だんち)間を走る全長約16キロの弓ケ浜サイクリングコースが全線開通。景観を生かした一層(いっそう)の魅力づくりが進められています。