着物姿の大関・釈迦ケ嶽雲右衛門(模写)。身の丈7尺1寸6分(約217センチ)とあります
着物姿の大関・釈迦ケ嶽雲右衛門(模写)。身の丈7尺1寸6分(約217センチ)とあります
釈迦ケ嶽雲右衛門が履いた草履。サイズは42センチ。これでも小さかったと伝えられています。
釈迦ケ嶽雲右衛門が履いた草履。サイズは42センチ。これでも小さかったと伝えられています。
釈迦ケ嶽 雲右衛門の歩み
釈迦ケ嶽 雲右衛門の歩み
着物姿の大関・釈迦ケ嶽雲右衛門(模写)。身の丈7尺1寸6分(約217センチ)とあります 釈迦ケ嶽雲右衛門が履いた草履。サイズは42センチ。これでも小さかったと伝えられています。 釈迦ケ嶽 雲右衛門の歩み

身長2メートル27センチ、大関で活躍

 大男ぞろいの大(おお)相撲(ずもう)力(りき)士(し)の中で、身長が2メートル27センチ、体重は170キロ以上あったといわれる巨(きょ)漢(かん)の釈(しゃ)迦(か)ケ(が)嶽(たけ)雲(くも)右衛(え)門(もん)(1749~75年)が江(え)戸(ど)時代、圧倒的(あっとうてき)強さで大変な人気を集めました。

 雲右衛門は、現在(げんざい)の安(やす)来(ぎ)市大塚(おおつか)町で染(そ)め物業を営(いとな)む家に生まれました。身長は諸説(しょせつ)ありますが、13歳(さい)ごろ、すでに1メートル94センチだったとも伝わっています。

 2メートル10センチになった15歳の時、大(おお)坂(さか)(大阪)相撲の朝(あさ)日(ひ)山(やま)部屋に入門。5年後、松(まつ)江(え)藩(はん)お抱(かか)え力士・雷電(らいでん)為(ため)五(ご)郎(ろう)(米子(よなご)出身)の弟(で)子(し)になり、番付(ばんづけ)は最初から大関(おおぜき)になります。横綱(よこづな)制度(せいど)がなく、最高位でした。

 翌(よく)年、師(し)匠(しょう)の為五郎と一緒(いっしょ)に江戸に行き、松江藩のお抱(かか)え力士になりました。大相撲の前身・江戸勧進(かんじん)相撲でも大関として華々(はなばな)しくデビュー。後に横綱(よこづな)となる谷風(たにかぜ)をも破(やぶ)り、6勝1預(あず)かり(勝ち負けをつけないこと)の好成績(せいせき)を収(おさ)めました。

 出場した4場所中、2場所で優(ゆう)勝(しょう)し、1場所は準(じゅん)優勝。23勝3敗、勝(しょう)率(りつ)は8割(わり)8分(ぶ)5厘(りん)の高率で、もし健康であったなら釈迦ケ嶽時代が到来(とうらい)しただろうといわれるほどの勝ちっぷりでした。

 地元の出版物(しゅっぱんぶつ)によると1773(安永2)年、後(ご)桃園(ももぞの)天皇(てんのう)の前で天覧(てんらん)相撲に出場し、優勝のご褒美(ほうび)にもらった品々を帰(き)省(せい)した際(さい)、大塚八(はち)幡宮(まんぐう)に奉納(ほうのう)。八幡宮は1913(大正2)年、火災(かさい)に遭(あ)い奉納品は消失したか、行方(ゆくえ)が分からなくなったといわれています。

 雲右衛門は天覧相撲の後、休場し、2年後、腸(ちょう)閉塞(へいそく)のため、26歳の若さで松江(まつえ)で亡(な)くなりました。

 実弟(じってい)の稲妻(いなづま)咲(さき)右衛(え)門(もん)も幕内(まくうち)力士でした。

 松江城下の正覚寺(しょうかくじ)(松江市中原(なかはら)町)に為五郎と並(なら)んだお墓(はか)があり、過(か)去(こ)帳(ちょう)には身長7尺(しゃく)4寸(すん)8分(ぶ)(約227センチ)、体重45貫(かん)800匁(もんめ)(約172キロ)との記録が残っています。

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 写真はいずれも、出(いず)雲(も)市大社町の島根県立古代出雲歴(れき)史(し)博物館での「松江開府400年 どすこい! 出雲と相撲」展(てん)を紹(しょう)介(かい)した本紙紙面から=2009年9月7日付