おいしそうな焼き芋。サツマイモは江戸時代に各地で栽培が盛んになり、人々の命をつないだ
おいしそうな焼き芋。サツマイモは江戸時代に各地で栽培が盛んになり、人々の命をつないだ
探玄如海の歩み
探玄如海の歩み
おいしそうな焼き芋。サツマイモは江戸時代に各地で栽培が盛んになり、人々の命をつないだ 探玄如海の歩み

江戸時代、人々を飢えから救う

 春らんまん。あちこちでサツマイモの苗(なえ)植えが行われています。秋の芋掘(いもほ)りが早くも楽しみですね。収穫(しゅうかく)した後も、焼き芋に豚汁(ぶたじる)に天ぷらにスイートポテトにと、味わう楽しみは尽(つ)きませんが、サツマイモは今から約300年前、江戸(えど)時代の人たちの命をつないだ大切な食べ物でした。浜田(はまだ)市のお坊(ぼう)さん・探玄如海(たんげんにょかい)(生年不詳(ふしょう)~1767年)は、浜田市に栽培(さいばい)を広め人々を飢(う)えから救(すく)いました。

 探玄如海が生きた江戸時代中期も今と同じように、多くの人がお米を食べて暮(く)らしていました。しかし、この頃(ころ)の日本では、しょっちゅう自然災害(さいがい)による不作の年が発生していました。長雨や洪水(こうずい)に上がらぬ気温。その反対の日照り。稲(いね)が思うように育たず、稲の病気や害虫の大量発生が人々を悩(なや)ませました。米が取れないと食べる物がないことにつながり、飢え死にする人が後を絶(た)ちませんでした。

 浜田市に残る記録でも、江戸時代中期は主なもので12回の自然災害が発生しています。川の氾濫(はんらん)や水不足による干害(かんがい)、虫害、暴風(ぼうふう)が原因(げんいん)で不作となりました。今の品種改良された稲と比(くら)べると、当時は天候不順に弱かったのです。

 特に享保(きょうほう)17(1732)年、同18(1733)年の不作はひどかったそうで、探玄如海はちょうど現在(げんざい)の浜田市日脚(ひなし)町にあったお寺・光明院(こうみょういん)のお坊さんでした。飢えに苦しむ人たちの深刻(しんこく)な状況(じょうきょう)に見て見ぬふりはできず、なんとか助けたいと思い悩んでいました。

 そんな時、修行(しゅぎょう)のため、九州へ行くことになったのです。行った先々で、みんなが家々で作っているサツマイモに目が止まりました。そこではサツマイモと、米・麦を半々で食べて暮らしていました。実際(じっさい)に食べさせてもらうと、おいしいことおいしいこと。そして痩(や)せた土地でもよく育ち、たくましい。

 「なんとかサツマイモの種芋(たねいも)を持ち帰り、浜田で育てたい」。そうして探玄如海は種芋を探(さが)し求めて手に入れ、修行から帰ってきました。

 早速、光明院の人たちと畑で育ててみました。なにぶん初めてのことなので、思うように育たず、何度も失敗したそうです。しかし、諦(あきら)めずに長い年月をかけて栽培を続け、育て方や保存(ほぞん)方法が分かってきました。やがてサツマイモ栽培は光明院周辺の人たちだけでなく、近隣(きんりん)の村々にも広まり、みんなが励(はげ)むようになりました。

 今では、私(わたし)たちはおいしいサツマイモを当たり前のように食べています。しかし「飢えている人を助けたい」と、強い思いでサツマイモ栽培を始めた探玄如海のような人たちがいたことを忘(わす)れることなく、「実りの秋」を待ちましょう。