1928年、オランダのアムステルダム五輪男子マラソンコースを走る津田晴一郎(右)。6位でゴールした。4年後のロサンゼルス五輪でも5位に入り、五輪で2大会連続の入賞を果たした
1928年、オランダのアムステルダム五輪男子マラソンコースを走る津田晴一郎(右)。6位でゴールした。4年後のロサンゼルス五輪でも5位に入り、五輪で2大会連続の入賞を果たした
ともにロサンゼルス五輪に出場し、男子マラソンで5位入賞した津田晴一郎(左)と、出雲市湖陵町出身で陸上男子100メートルで6位入賞した吉岡隆徳=1964年。松江市立松江歴史館所蔵
ともにロサンゼルス五輪に出場し、男子マラソンで5位入賞した津田晴一郎(左)と、出雲市湖陵町出身で陸上男子100メートルで6位入賞した吉岡隆徳=1964年。松江市立松江歴史館所蔵
津田 晴一郎の歩み
津田 晴一郎の歩み
1928年、オランダのアムステルダム五輪男子マラソンコースを走る津田晴一郎(右)。6位でゴールした。4年後のロサンゼルス五輪でも5位に入り、五輪で2大会連続の入賞を果たした ともにロサンゼルス五輪に出場し、男子マラソンで5位入賞した津田晴一郎(左)と、出雲市湖陵町出身で陸上男子100メートルで6位入賞した吉岡隆徳=1964年。松江市立松江歴史館所蔵 津田 晴一郎の歩み

島根にマラソン 根付かせる

 日本を代表するマラソンランナーだった松江(まつえ)市出身の津田(つだ)晴一郎(せいいちろう)(1906~91年)は、2度出場したオリンピックの男子マラソンで連続入賞(にゅうしょう)する、初の偉業(いぎょう)を成(な)し遂(と)げ、島根で初めてのマラソン大会を誕生(たんじょう)させました。今年は没後(ぼつご)30年にあたります。

 晴一郎は、松江市北堀(きたほり)町で染(そ)め物関係の商家に生まれました。旧制(きゅうせい)松江中学校(現在(げんざい)の松江北高)で陸上競技(きょうぎ)部に所属(しょぞく)し、中距離(ちゅうきょり)ランナーとして練習に明け暮(く)れます。

 陸上を続けるため、関西(かんさい)大学に進学。関西学生選手権(せんしゅけん)の5千メートルなどで相次ぎ優勝(ゆうしょう)し、初めて海外遠征(えんせい)した中国・上海(シャンハイ)での極東(きょくとう)選手権1500メートルも制覇(せいは)します。晴一郎の名前は、全国的に知れ渡(わた)るようになりました。

 次第に「マラソンでオリンピックに出場したい」思いを強くし、1928(昭和3)年、慶応義塾(けいおうぎじゅく)大学へ転校。夢(ゆめ)の実現(じつげん)を目指しました。

 フルマラソンに初挑戦(ちょうせん)したオリンピック近畿(きんき)予選会で優勝、最終予選でも2位となり、この年に開かれた第9回アムステルダムオリンピック(オランダ)男子マラソンの日本代表に選ばれました。

 マラソン出場選手は日本代表3人を含(ふく)め64人。晴一郎は折り返しを過(す)ぎた地点で2位の快走(かいそう)で、最後まで頑張(がんば)り、2時間36分20秒で6位入賞しました。

 4年後の1932(昭和7)年。2度目のオリンピック代表となります。アメリカの第10回ロサンゼルス大会に向かう船上で甲板(かんぱん)をランニングし、大会に備(そな)えました。

 マラソンの本番では、日本代表3人を含む28人の選手がスタート。晴一郎は36キロ過ぎで4位、5位あたりにつけます。頑張り続け、2時間35分42秒でゴール。前回大会を上回る5位入賞を果たしました。

 2度のオリンピックを経験(けいけん)して、「暑い時季に開かれるオリンピックに勝つために、山陰(さんいん)で夏のマラソンを計画してはどうか」と島根陸上競技協会に提案(ていあん)。1958(昭和33)年、夏の「玉造(たまつくり)毎日マラソン」が生まれました。

 第1回大会から亡(な)くなる前年の33回大会まで、一度も欠かさず審判長(しんぱんちょう)を務(つと)めます。玉造毎日マラソンはその後、松江玉造ハーフマラソンを経(へ)て、国宝(こくほう)松江城(じょう)マラソンに移行(いこう)しました。

 松江をこよなく愛し、マラソンに生涯(しょうがい)をささげました。