「祭りの場」が芥川賞に決まり、喜びを語る林京子さん=1975年7月、東京都内のホテル
「祭りの場」が芥川賞に決まり、喜びを語る林京子さん=1975年7月、東京都内のホテル

 4月に熊本市内であった水俣病の講演会。地元のジャーナリスト高峰武さんは、水俣病の捉え方について切り出した。海に流した工場排水に含まれたメチル水銀が入った魚を食べたことで起きた、川で例えれば上流から下流へと汚染された事件と解されているが「違うと思う」と。「家族団らんの夕餉(ゆうげ)の魚が侵された、命の根源である食卓に起きた事件だということを考えたい」と訴えた。

 この言葉に、作家の林京子さん(1930~2017年)の長崎での被爆体験を基にした小説『祭りの場』を思い出した。「松山町の破壊された街を眺めたとき、私はフイゴを吹く老人を想(おも)い浮(うか)べた。七輪で鰯(いわし)を焼く家族の団らんを想い浮べた」「破壊も平和も私の場合家族にしかつながらない。国家は常に遠い存在だ」。

 松山町は爆心地。学徒動員中の林さんは1・4キロ離れた工場にいた。九死に一生を得たが、結婚や出産、子育てなどさまざまな場面でもたらされる被爆の影響に苦しみ、人類が犯した罪への怒りを小説に書き続けた。

 戦争を始めた国家の犠牲になるのは暮らし、破壊されるのは日常だ。「国家は常に遠い存在」と記した林さんは、文化庁主催の芸術選奨新人賞の内示を「被爆者であるから、国家の賞は受けられない」と辞退したという。

 あらゆる核がもたらす惨劇は今も絶えない。林さんをはじめ、被爆者の怒りを風化させてはならないと強く思う。(衣)