佐和華谷が生まれた原田屋跡=島根県美郷町九日市
佐和華谷が生まれた原田屋跡=島根県美郷町九日市
佐和華谷の書画=大田市静間町、安楽寺
佐和華谷の書画=大田市静間町、安楽寺
佐和華谷が生まれた原田屋跡=島根県美郷町九日市 佐和華谷の書画=大田市静間町、安楽寺

銀山にゆかりの文化人

 島根県美郷(みさと)町出身の佐和(さわ)華谷(かこく)(1749~1831年)は江戸(えど)時代後期に活躍(かつやく)した儒学者(じゅがくしゃ)です。書画で石見(いわみ)銀山(大田(おおだ)市)にゆかりの深い文化人でした。

 華谷は本名を淵(えん)といい、沢谷(さわだに)村九日市(ここのかいち)(現(げん)美郷町九日市)に生まれました。九日市は古くは市場町として栄えました。江戸時代に入ると、石見銀山で産出した銀を瀬戸内海(せとないかい)側まで運んだ輸送路(ゆそうろ)「銀山街道」の最初の宿泊(しゅくはく)地となり、宿場町として発展(はってん)しました。華谷の生まれた家は原田屋(はらだや)と呼(よ)ばれる本陣(ほんじん)で、幕府(ばくふ)の役人など身分の高い人が宿泊しました。

 華谷は青年時代から京都で勉学に励(はげ)み、高名な儒学者頼(らい)山陽(さんよう)(1780~1832年)と交流しました。南画家中林(なかばやし)竹洞(ちくどう)(1776~1853年)に師事(しじ)し、絵を学びました。華谷の名は教養が高い文化人として広く知られました。

 1811(文化8)年、日本地図を作製(さくせい)するため全国を歩いて測量(そくりょう)していた伊能(いのう)忠敬(ただたか)(1745~1818年)が九日市を訪(おとず)れた際(さい)、華谷の自宅(じたく)を訪(たず)ねましたが不在(ふざい)で会えなかったことを測量日記に記しています。

 華谷は天皇(てんのう)に忠義(ちゅうぎ)を誓(ちか)う勤王思想(きんのうしそう)を持つ人たちと交流したことから、幕府の役人に追われ、高野山(こうやさん)(和歌山県)に逃(のが)れて仏門(ぶつもん)に入りました。

 石見銀山中心部の大田市大森町に移(うつ)り住み、観世音寺(かんぜおんじ)の住職(じゅうしょく)となり、数々の書画を残すとともに多くの弟子を育てました。1791(寛政(かんせい)3)年に浜田藩(はまだはん)が藩校「長善館(ちょうぜんかん)」を開校した際(さい)、招(まね)かれて講義(こうぎ)をしたといわれます。

 華谷は1831(天保(てんぽう)2)年2月、82歳(さい)で生涯(しょうがい)を終えました。大森町の蔵泉寺口番所跡(ぞうせんじぐちばんしょあと)近くには、華谷が亡(な)くなった後に息子(むすこ)や弟子(でし)が建てた碑(ひ)があります。