生け花の小原流をつくった小原雲心=いけばな小原流本部提供
生け花の小原流をつくった小原雲心=いけばな小原流本部提供
盛花の代表的作品の「菊5種の色彩盛花」
盛花の代表的作品の「菊5種の色彩盛花」
小原雲心の作品を再現した「秋の散り紅葉」
小原雲心の作品を再現した「秋の散り紅葉」
生け花の小原流をつくった小原雲心=いけばな小原流本部提供 盛花の代表的作品の「菊5種の色彩盛花」 小原雲心の作品を再現した「秋の散り紅葉」

日本の三大流派に発展

 松江(まつえ)市雑賀町(さいかまち)で生まれた小原(おはら)雲心(うんしん)(1861~1916年)は明治時代の終わりごろ、華道(かどう)(=生け花)「小原流(おはらりゅう)」を新しくつくりました。底が広くて浅い花器(かき)の中に、花を盛(も)るように生ける独創的(どくそうてき)な「盛花(もりばな)」を生み出しました。今では、300以上といわれる流派(りゅうは)の中で池坊(いけのぼう)、草月(そうげつ)とともに、三大流派として知られています。

 雲心は生家の高田(たかだ)家が代々、陶芸(とうげい)を職業(しょくぎょう)としていて、父の友人から生け花を習いました。1880(明治13)年、市内竪町(たてまち)の小原家(後に灘町(なだまち)に移転(いてん))の養子になります。

 小原家は代々、松江藩(はん)の御用金(ごようきん)に関わる仕事をしていた裕福(ゆうふく)な商家。雲心は、お茶やお花に親しむ不自由のない生活を送り、彫刻家(ちょうこくか)の荒川(あらかわ)亀斎(きさい)ら松江の有名な工芸家と交流を深めました。

 明治時代になると藩の支(ささ)えがなくなり、当主の死去もあって小原家は次第に没落(ぼつらく)。雲心は1889(明治22)年、彫刻家を目指して大阪へ行きます。

 才能(さいのう)が花開き、京都美術展(びじゅつてん)に出品した作品が明治天皇(てんのう)お買い上げの名誉(めいよ)を得(え)ました。彫刻家としての雲心の名声は高まり、制作(せいさく)依頼(いらい)も増(ふ)えていきます。雲心は彫刻家としての通称(つうしょう)です。

 しかし、持病があり医師(いし)の勧(すす)めもあって、体力の消耗(しょうもう)が激(はげ)しい彫刻家を断念(だんねん)し、生け花を仕事にすることにしました。

 雲心は1895(明治28)年、花の形や色の組み合わせの美しさを表現(ひょうげん)する「色彩(しきさい)盛花」を考え出しました。輸入(ゆにゅう)され始めたゼラニウムやシクラメンなど、色鮮(あざ)やかな西洋の花を積極的に生け花に取り入れました。また、自然の景観を表現する「自然盛花」も生み出しました。

 1912(明治45)年には大阪の百貨店で「第1回小原式盛花大会」を開催(かいさい)。生活の洋風化とともに、幅(はば)広い世代の関心を集めました。

 小原流は5代目家元(いえもと)の現在(げんざい)、国内外に多くの会員を擁(よう)する一大生け花流派になっています。