俵国一の銅像
俵国一の銅像
俵国一の銅像がある浜田市役所前広場=浜田市殿町
俵国一の銅像がある浜田市役所前広場=浜田市殿町
俵 国一の歩み
俵 国一の歩み
俵国一の銅像 俵国一の銅像がある浜田市役所前広場=浜田市殿町 俵 国一の歩み

最新技術教え たたらも研究

 浜田(はまだ)市殿(との)町の市役所前広場に銅像(どうぞう)があります。この人物は誰(だれ)で、何をした人か知っていますか? 答えは俵(たわら)国一(くにいち)(1872~1958年)です。浜田市出身で日本の製鉄(せいてつ)技術(ぎじゅつ)の発展(はってん)に力を尽(つ)くしました。

 国一が生きた明治、大正、昭和という時代は、良質(りょうしつ)な鉄をたくさん作り出せるということが、とても大切なことでした。鉄道が走るようになり、船も建物も木造(もくぞう)から鉄製へなっていったころで、鉄が必要だったのです。

 世の中がめざましく変わっていく時代に、国一は浜田市真光(しんこう)町に生まれました。家はしょうゆを造(つく)っていて、子どものころから配達のお手伝いをしていたそうです。勉強熱心で東京帝国(ていこく)大学(現(げん)・東京大学)へ進学。そこで製鉄に関わる冶金(やきん)について学び、研究に打ち込(こ)みました。

 この冶金というのは、金属(きんぞく)を含(ふく)んでいる石「鉱石(こうせき)」から、余分(よぶん)なものを取り除(のぞ)き、私(わたし)たちにとって便利な金属を取り出すことです。鉄はもともとは鉄鉱石の中に含まれ、冶金によって取り出し、鉄道などで使う材料になるのです。

 国一は大学で毎夜遅(おそ)くまで、熱心に研究を続けました。努力が認(みと)められ、ドイツに留学(りゅうがく)させてもらえることになりました。お金は政府(せいふ)が出してくれるというありがたい話で、もちろん国一は喜(よろこ)びました。

 1899(明治32)年のことで、このころの日本は冶金を含め、科学技術の進んだドイツなど欧州(おうしゅう)の国々に学んでいる時期。フライベルク大で最先端(さいせんたん)の技術を意欲(いよく)的に吸収(きゅうしゅう)しました。

 そして、日本へ戻(もど)ると、再(ふたた)び大学で研究に没頭(ぼっとう)。同時に多くの学生に教えました。国一の丁寧(ていねい)な指導(しどう)を受けた学生たちが世の中に出て働き、日本の製鉄技術は大きな進歩を遂(と)げたのです。

 国一は欧州で進んでいた最新の冶金、製鉄技術を研究する一方で、日本古来の製鉄技法「たたら」にも目を向けました。たたらが生み出す鉄は粘(ねば)り強く、日本刀の原料として使われてきました。

 島根県内には、たたらをした跡(あと)がたくさん残っていて、国一は実際(じっさい)に各地を歩いて調査(ちょうさ)しました。成果は「古来の砂鉄(さてつ)精錬(せいれん)法」「日本刀の科学的研究」など論文(ろんぶん)や出版物(しゅっぱんぶつ)にまとめられ、学問の貴重(きちょう)な資料(しりょう)となっています。