松江に盲唖学校を開校した福田与志=島根県立松江ろう学校提供
松江に盲唖学校を開校した福田与志=島根県立松江ろう学校提供
1903(明治36)年ごろ、京都市立盲唖院で教える福田与志(左端)=京都府立盲学校提供
1903(明治36)年ごろ、京都市立盲唖院で教える福田与志(左端)=京都府立盲学校提供
松江に盲唖学校を開校した福田与志=島根県立松江ろう学校提供 1903(明治36)年ごろ、京都市立盲唖院で教える福田与志(左端)=京都府立盲学校提供

障がい児教育に生涯捧げる

 福田(ふくだ)与志(よし)(1872~1912年)は明治時代の終わりごろ、目や耳に障(しょう)がいのある(=盲(もう)・唖(あ))子どもたちに教育を受けさせたいという思いから、全国でも少なかった盲唖学校を松江(まつえ)につくりました。

 与志は、鳥取市元(もと)大工(だいく)町で運送業を営(いとな)む家に生まれました。7歳(さい)の時、松江に移住(いじゅう)し、島根県尋常(じんじょう)師範(しはん)学校(現在(げんざい)の島根大学教育学部)を卒業後、旧(きゅう)八束(やつか)郡本庄(ほんじょう)村の本庄小学校教員になります。

 本庄小学校の校庭に、耳が聞こえず学校に通っていない女児が時々来ていました。女児が、児童の授業(じゅぎょう)をうらやましそうに眺(なが)める様子に、与志は心を痛(いた)めたといいます。

 「この子を教えたいけれど、教え方が分からない…」。そう思った与志は、兄の福田平治(へいじ)に相談。平治は、不遇(ふぐう)な子どもたちを養育、自立支援(しえん)する育児院を島根県で初めて開設(かいせつ)した「山陰(さんいん)社会事業の父」と呼(よ)ばれた人で、与志に日本で最初の盲唖学校である京都市立盲唖院(現在の京都府立盲学校)視察(しさつ)を勧(すす)めました。

 与志は京都市立盲唖院を訪(おとず)れた後、意を決して本庄小学校を辞(や)め1899(明治32)年、京都市立盲唖院の教員になります。本庄小学校で知り合った女児を連れていき、入学させました。女児は勉強を頑張(がんば)り、成績(せいせき)優秀(ゆうしゅう)でした。

 6年間、京都と東京の盲唖学校で教員として教えた後、1905(明治38)年、33歳の時に松江に帰り、私立(しりつ)の盲唖学校を開校しました。

 与志校長の下に、ろう児7人と盲児4人が入学。運動場や寄宿舎(きしゅくしゃ)も備(そな)えていました。与志や母親が一緒(いっしょ)に住んで、心細い子どもたちのために温かい家庭的雰囲気(ふんいき)の学校づくりに努力しました。

 翌年(よくねん)には児童、生徒数は2倍以上の23人に増(ふ)えます。しかし、資金難(しきんなん)で経営(けいえい)に苦労しました。1912(大正元)年11月、体調を崩(くず)して、40歳という若(わか)さで亡(な)くなってしまいます。

 与志が開校した盲唖学校への思いは、島根県立松江ろう学校(松江市古志(こし)町)と、県立盲学校(同市西浜佐陀(にしはまさだ)町)に受け継(つ)がれています。