近代日本文学を経済学的な視点から研究している山本芳明学習院大教授によると、夏目漱石は独特な貨幣観の持ち主だったらしい。オカネに色は付いていないが、労働の対価として受け取るオカネには色を付けるべきだと主張した。同じ金額でも労働の質によって価値に差をつける「貨幣色別(わ)けの説」である▼知識労働など「高級な労働」ほど高い価値を与え、職種によってオカネの値打ちに傾斜を設ける。極論でかみ砕けば、大学教授の月給50万円で200万円の新車を購入できるが、非熟練労働者の同額の月給では、30万円の中古車しか買えないという趣旨▼漱石自身が職業差別意識を持っていたとは思えない。ただ、当時の小説家が純文学を書いても売れず生活に困窮する一方で、低俗な作品ほどよく売れてオカネが入る現実を皮肉交じりに嘆いたのではないか。作品の価値と報酬は反比例するとの持論が物語る▼「文士に貧乏」の当時の通り相場に合わせようとしたのか、漱石自身も「清貧」を演じてみせた。現実には大正初めの所得分布で上位2%以内に入る高額所得者であり、自分の立場を棚に上げた自己欺瞞(ぎまん)のにおいがする、と山本氏▼今のコロナ下で社会活動を支える看護師や介護士などエッセンシャルワーカーの賃金はどうか。強まる感染力と闘いつつ今年の春闘が始まった。感染リスクに応じた「賃上げ色別け説」があっていい。(前)