浜田城資料館に設置された駅鈴のモニュメント=浜田市殿町
浜田城資料館に設置された駅鈴のモニュメント=浜田市殿町
小篠敏の墓=浜田市真光町、観音寺
小篠敏の墓=浜田市真光町、観音寺
小篠 敏の歩み
小篠 敏の歩み
浜田城資料館に設置された駅鈴のモニュメント=浜田市殿町
小篠敏の墓=浜田市真光町、観音寺
小篠 敏の歩み

本居宣長に「駅鈴」の複製届ける

 江戸(えど)時代の浜田(はまだ)に自由で活発な教育を行う学校がありました。開校に尽力(じんりょく)し、運営(うんえい)の中心的役割(やくわり)を担(にな)ったのが小篠(おざさ)敏(みぬ)(御野(みぬ))(1728~1801年)です。浜田地方の学問や芸術(げいじゅつ)を盛(さか)んにした人物として語り継(つ)がれています。

 浜田藩(はん)の学校は「長善館(ちょうぜんかん)」という名で、1791(寛政(かんせい)3)年に設立(せつりつ)されました。場所は現在(げんざい)の殿(との)町にある夕日ケ丘(ゆうひがおか)聖母(せいぼ)幼稚園(ようちえん)の近くです。

 青少年の武士(ぶし)たちは毎朝学校に来ると、到着(とうちゃく)した順に席に着きました。身分の高い家の子たちが席順で優先(ゆうせん)されることはありません。身分制度(せいど)が厳(きび)しい江戸時代では珍(めずら)しく、「学問の前には全てが平等で身分は関係ない」という敏の考えがそこにありました。

 敏は1728(享保(きょうほう)13)年、遠江国(とおとうみのくに)浜松(現・浜松市)の貧(まず)しい家に生まれました。幼(おさな)い時から本を読むのが好きで勉学に励(はげ)み、頭がいいと評判(ひょうばん)だったそうです。25歳(さい)の時、浜田藩の医者小篠家に見込(こ)まれ養子になりました。浜田藩に仕(つか)えながら新しい学問や文化を進んで学び、中国古典に関する数多くの著書(ちょしょ)を出しました。

 敏の関心はその後、日本の古典や短歌へと向かい、1780(安永(あんえい)9)年、国学の有名な学者、本居(もとおり)宣長(のりなが)の弟子(でし)となります。宣長は2歳年上だった敏の能力(のうりょく)を高く評価(ひょうか)し、「石見(いわみ)浜田の博士(はかせ)」などと呼(よ)んで慕(した)い、深い信頼(しんらい)を寄(よ)せたといいます。

 敏は教えを持ち帰り、浜田藩に国学が広まりました。藩士たちだけでなく、ついには学問好きだった殿様の松平(まつだいら)康定(やすさだ)も宣長に教えてほしいと願い出ました。1795(寛政7)年、康定は参勤交代(さんきんこうたい)の途中(とちゅう)、松阪(まつさか)(三重県松阪市)にいる宣長を訪(たず)ねて「源氏(げんじ)物語」に関して教えを受け、願いをかなえました。

 間を取り持ったのは、他でもなく敏でした。顔合わせの環境(かんきょう)を整えるため、敏は康定の遣(つか)いとして、鈴(すず)が大好きだった宣長に、隠岐国(おきのくに)に伝わる「駅鈴(えきれい)」の複製(ふくせい)を届(とど)けました。

 駅鈴は宣長を象徴(しょうちょう)する鈴として現在の松阪市のシンボルとなっています。この縁(えん)を基(もと)に浜田市と松阪市は2016年4月、「駅鈴協定」を結び、交流を続けています。

 浜田市側では19年10月に殿町の浜田城資料館(しりょうかん)に駅鈴のモニュメントが設置(せっち)され、真光(しんこう)町の観音寺(かんのんじ)にある墓碑(ぼひ)とともに、敏の功績(こうせき)を伝えるスポットになっています。